多謝イ尓 朋友
東日本大震災 台湾 感謝
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本当にありがとうございました。
「ここから先は実体験ですが、わかりづらい文章ですので読み飛ばしていただいて大丈夫です」
僕は日本の東北地方の宮城県の仙台市に住んでいます。東日本大震災の時は自宅の数kmまで津波が押し寄せました。親戚や友人や知人を大勢なくしました。 想像を絶する大災害です。 自衛隊の方々が漂流物を撤去してくれて通行止めだった道路からやっと自転車と歩行なら海岸線まで通行できるようになった時、この被災の記憶を後世に伝えて防災意識と減災に役立てなきゃ!次の世代に伝えなきゃ!とカメラを持って自転車で進みました。 しかし、そこへの道中や海岸線までの間で僕が見た光景は想像を絶していました。建物のほとんどは基礎部分だけを残して根こそぎ流されていたのです。青々と茂っていた防風林の松はほぼ壊滅して根ごと数kmに渡り流され、あちらこちらに自動車や船やがれきが散乱して、農地は見る影もありませんでした。学校などを残してそれ以外をなめるように流されてかつては住宅や自然によって形作られていた景色が変わり果てていました。本来、見えるはずのない海岸近くまでかなり遠くから見渡せるほど平坦になっていたのです。 あまりの衝撃の大きさに僕は1枚も撮影ができませんでした。 自失呆然と立ち尽くす僕と変わり果てた景色だけでした。 僕の個人的意見で記録することがはばかられたのです。 それほどに悲惨でした。 つたない僕の言葉での表現は難しいですが台湾の方々がニュース画像で見かけた通りの光景の方が雄弁に物語っているかもしれません。 それが目の前に現実として横たわっていたのです。 これを誰かに見せる前提で記録に残すべきか?非常に判断に困りました。結局、撮影できずに帰宅したのです。 その後、復興事業の一環として貞山掘運河の重機によるサルベージや沿岸部のがれき撤去に携わりましたが家族のアルバムや位牌や生活雑貨が散乱しており、いかにして一瞬で生活が飲み込まれたかを物語っていました。同僚の中には運河から引き上げた瞬間に車両の窓からダラリとご遺体の腕が崩れたのを見た者もいました。 フィクションのような世界でした。 その後も水不足・食料不足・停電・燃料不足等々の生活基盤を揺るがす状態でした。 しかしながら、震災直後から自衛隊や消防隊や医師団やボランティアの方々すべての人の援助がありました。そして悲しくもそれらの方々に忘れることのできない悲惨な光景を見せることとなってしまいました。精一杯の真心を頂きましたがその方たちの中にはいまだにPTSDに悩まれている方々がいらっしゃることに心を痛めております。感謝だけでなく複雑な気持ちです。
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- No.5 周 2017/04/08 05:57
- こんにちは。文章読ませていただきました。あの震災はとても心が痛ましい出来事だったのを覚えています。私は台北市内に住んでいる台湾人です。
震災が起きてすぐに台北市内で募金活動が行われいたのを覚えています。 - No.4 NK 2016/09/30 20:17
- No.2様 おっしゃる通り内容が台湾の方々と中華人民共和国の方々へと分けた方が良かったですね! すごくわかりやすいアドバイスありがとうございます。
- No.3 NK 2016/09/30 20:15
- No.1様 的確なアドバイスありがとうございます。 もっと簡潔にすべきでした! 思いのたけを表現するのがとても下手で申し訳ありません。 また、表現すべき場所を教えて頂き助かります! ありがとうございます。
- No.2 guest 2016/09/30 18:47
- 歴史的な受け取り方は様々とは思いますが、小日本や鬼子など…中華人民共和国の掲示板で謝罪なさっては?多くの台湾の方にとっては感謝だけで充分だと思います。
- No.1 guest 2016/09/30 13:55
- 日本人らしい分かりにくい文章ですね。最後の文章読まないと感謝メッセージだとはパッと見、分からないです。
もう少し要点をまとめて、分かりやすく書かないと台湾の方には通じません。外国語を読むのですから、なるべく簡潔に書いたほういいです。
Facebookに日本と台湾の交流ページが複数ありますので、そちらに投稿したほうがいいと思います。時間のある日本語が出来る台湾の方が翻訳してくださると思います
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